シンポジウム
「舞台芸術はどのように社会とかかわっていくか」

○はじめに
*(内野儀/学習院女子大学教授)*

今の日本の演劇は見ている世界観が人によって違う。それぞれの間にコミュニケーションがない、それを加速する役割を果たしているのがSNSであり、個々の世界観を分断するほど大きくなってしまった。みんなが演劇に行くようになったのは90年代後、今からおよそ20年前にはこのような分断はなかったような気がする。
今までの歴史の中で、美術や音楽と違い、演劇は新劇、アングラなどの台頭はあったが、それほどオフィシャルなコンテンツとして認知されていなかった。しかし平田オリザが登場した90年代にその流れが変わった。いわゆる普通の演劇が始まった。
同時に平田オリザはワークショップの名人だった。日本中を回り、教科書にも載り、いわゆる“普通の人”がメジャーになった。とはいえ…まだ全国規模ではそうでもない。現在、小中高の各学校では演劇をつかったワークショップが広がっている中、それが今後どういう風に変移していくのか?
 

○学校では演劇を利用したどういう授業が行われているのか?
*海城中学高等学校の事例(中村陽一/海城中学高等学校教諭)

 <中学1年生>
『交通安全ワークショップ』など
電車の中など普段の生活の中でも、人は意識的に迷惑をかけようと思っているわけではなく、無意識の中で行っている事もある。それを体験の中で学んでもらうというプログラムを実施。学校、電車で迷惑をかける場面をプロの俳優に演じてもらい、それに見てどのような行為が迷惑だったのかを話し合った後、全員で楽しめるような簡単なワークを通して、自分たちが夢中になるうちに他人に迷惑をかけてしまう状況を体感し、なぜそうなってしまったのか…などを振り返る。
 
<中学2年生>
『創作 聞き書きワークショップ』
初めて会う大人にインタビューをして、それを演劇にして発表する。書き取ったものを活かしながら演劇創作をする。どこを演劇にするか?などを話し合いながらチーム毎に創作を進めていく。創作から発表まで一連の作業を行うので、学生の負荷は高いが、笑顔がよくみられる現場である。
 
<中学3年生>
『修学旅行のワークショップ』
講師の方から修学旅行先での課題が出る。(例:写真を撮る・ひとつ物を持ち帰るなど)それを元に演出家にアドバイスをもらいながら修学旅行を振り返りながら演劇創作を行う。生徒達に任せっぱなしにせず、必ず演出家とコミュニケーションをとりながら進行していく。
 

○NPO法人PAVLICの活動とは?今の日本の演劇教育、問題点など
*田野邦彦/PAVLIC代表理事*

2010年から文科省でコミュニケーション教育の予算がつくようになり、PAVLICもそこに参画しようという形で事業化し、数多くの地域でワークショップをやるようになった。旅費にかける費用が多いので、それを削って地元でやろうという流れもあり、PAVLICとしては都内、小平、所沢などでワークショップをしている。文科省とNPOがやり取りをしながら行っており、所沢で1校・小平で3校・数年前までは沖縄、青森、長野、栃木などでも実施していた。 小豆島、岡山県奈義町など、コミュニケーションでワークショップをやるところは増えており、特色ある教育が地方再生の切り札になるという傾向も見られる。 地方自治体が助成金をとる形で現地のアーティストと連携するなど、演劇ワークショップに敏感な教育現場が行う場合もある。都立高校はキャリア教育の予算でワークショップの事業が増えた。
問題点としては、今、日本にはコーディネーターにかける予算とコーディネーターになる人材が足りない/人材育成をやる・他方に人を育てるノウハウがない。東京芸術劇場で人材育成を昨年やったが、育成以外にも、地方の劇団にうまく働きかけていくことなども重要である。
 

○地方における、演劇/ワークショップの展望と課題
*山田裕幸/ユニークポイント主宰*

3年前から静岡県藤枝市に劇団の拠点を移した。市役所の担当の部署に働きかけて『演劇ワークショップはこれから必要であり、行うべきである』との文章を作ったが、リアクションがない。意欲がある先生が一人いるだけで最終的には話が早くなるのでは?という見解に至った。市町村として、演劇ワークショップは、まちづくりとしても有用であると感じた。
藤枝市民はおよそ15万人、演劇を観に来るお客さんがいない。都内の人口は約70倍であり、人口比から見てもお客さんを集めるのは大変である。小中学校などでワークショップを通して演劇を経験してもらうということは、今後の観劇の活性化にも繋がる。静岡市で活動しているSPACは5回くらい派遣事業を行っており、ゲームをし終わったあと歩行、発声などを行っているが、個人としてはコミュニケーションワークショップが増えればいいという見解である。
 

【質疑】
Q1.ワークショップに来てもらう人はどの様に選ばれるのか?

A.<中村>PAVLICの田野さんに相談し、来てほしい人にきてもらうというスタンス。学校の指導経験の有無ではなく、本物の力量のある人に来てもらうのが好ましい。
 

Q2.高校ではワークショップはやっていないのか?実際の効果のほどはどうか?

A.<中村>効果があるのかどうかは数値化できないため、正直のところはわからないが、生徒達が楽しそうにやっていることは間違いない。仲良くなったり楽しんでいたりする姿も見られる。楽しく表現活動をする経験の中で、“プレゼン/他人に説明する能力”などにうまく活用していける。(生徒たちは)何かを伝えるときに見せ方を工夫、変えるなどしてより伝えられないのかと模索する。『その方法がおもしろいよ』とフィードバックをもらえるということは“伝わっている”ということである。それを活用し、よりいいものにするように努力する子供が増えている。お互いが違うアイディアをもっていてもそれを一つにまとめていかないといけない。(そのような場面が)今後多くなっていく中で、すごく効果のある事である。高校でもやっていきたいが、予算やほかの教育関連のものとの兼ね合いで難しいところもある。
 

Q3.熱心な先生がいたら文化政策として活発になるが、反面、その先生が異動になるとつぶれるなど不安定な部分があるのだろうか?

A.<田野>個人に依拠した文化政策はつぶれやすい。青年団の豊岡市移転に関しても、県知事選の結果によっては、なくなる可能性もあった。理解のある人の熱によってささえられた活動が学校、地域に根付いたときに広まるという可能性もある。個人それぞれいろんなイメージが演劇に対してあるが、活動を通して、それが強烈な体験として子供たちに残り、次第に理解者が増えていく。そのような形で広がっている可能性もある。事例として、青森県横浜町、人口5000人の町で5.6年ほど前にコミュニケーションワークショップを行った。過去にあった小中学校が統廃合されたのをきっかけに、先生方から声をあげていただいて、夏の期間に一週間ほど公演を行った。550~560人が観にきてくださった。地元でもともと演劇をしていた方も4人くらい参加されて、地元を巻き込む形での公演になった。それを地域の方が喜んでくれている。毎年やりたい!という声もあった。演劇に参加するという機会をいかに多く持てるか、演劇人にとっても大事な事である。
 

Q4.今後、中村先生としてはどの様に教育現場での幅を広げていきたいのか?またワークショップの活動の中で、教員レベルでの横の広がりというのはないのか?

A.<中村>ワークショップを実践しているということが、うちの学校の宣伝になる・生徒を集めるというものであればほかの学校に教えたくないというのはあるが、元々がそれを目的ではじめたわけではなく、時代が追いついてきたという印象である。アクティブラーニングなどの必要性が高まってきたので、ほかの学校でもこのような活動の重要性に気づいてきた。質を上げていくためには横の広がりというものも必要である。演劇を(授業に)取り入れた時期は早かったが、早いなりのメリットもあって、同じような活動をしても、他校と競合するような事はない。横に広げていきたいという願望もある。
 

Q5.義務教育の中に『ダンス』がカリキュラムに導入されたが、そこからの影響はどうなのだろうか?

A.<田野>そこについては違う世界の話のようなもので、大きな影響はない。現実、コミュニケーション事業の中で“ダンス”が通る事が少なくなってきた。授業の中に取り入れられているものなので、外から講師を呼ぶという認識ではないのか?ただ例として、音楽などはその学校が奨励して、授業の中で精力的にやっているなどの実情があると、観察などのセンスの良さに活かされている事も多く、ワークショップに行った先で『この学校は音楽が盛んです』といわれると期待値があがる。
 

Q6.昔は『演劇は金がないと続けられないもの』という認識があり、男は30歳を過ぎると定職につくなどして、演劇から遠ざかっていく。反面、女性は結婚しても続けられる。ということもあり、それが現代になって、文化政策として演劇を使って収入を得る、など方向性が変わってきた。山田さんからみて職業としての演劇人とワークショップの関係はどう感じるか?

A.<山田>ワークショップはやっているほうがおもしろくないと続かない。ただ生業としてやっていくと消耗する。アーティストとして琴線に触れる場面など、自分にも帰ってくることがたくさんある。結果それがプラスになって続けられる。
昔は、演劇人が大学の先生になるとは想像もできなかった。それだけ社会的にも演劇が市民権を得て、広く認知されてきているのではないか。それでも10年以上前は、演劇人が行くと変な事をする…というような風潮も確かにあって、とある学校でワークショップをやったときに“食べるシーン”をやったときに問題になった事があり、『お昼の時間など、食べてもいい時間外で食べるとはなにごとか?』という声があがり、その時の対応が大変だった。
<田野>創作発表の段階で語気の強い言い方をすることもあるので、それで波風が立ちそうなことがある。そのような時に、なぜそういう言葉を使うに至ったか?という過程をきちんと説明してくれるなど、守ってくれる先生がいてくださると安心する。
<山田>そのとおりで、行政や学校のバックアップが必要。藤枝市では自分しかいないので『自分がやらなければ』という使命感をもって活動をしている。地域間格差もある。知恵を絞りながら一生懸命『どうして解決していくか?』というのを考えていかなければいけない。
 

 Q7.海外では演出=ファシリテーターとして作品を作るところも結構ある。“みんなで話し合って作品を作る”というのは、(作品の)繋がりが難しくなるという側面もあるかもしれないが、日本はなぜそれがないのか?また地域振興において、いわゆる『元ヤン』と呼ばれる土着信仰の強い人たちが地元のコネクションをもっていることで地域活性化になるという例もある。意識が高い系と呼ばれる進学校以外にも、そういう人たちにもワークショップを取り入れるべきではないのか?またそういう方向性はないのか?

A.<田野>そうなった場合、『予算をどうするか?』という問題がすごく大きい、助成をとった上でやるという理解のある先生がいても、素行不良の生徒が多いところには行き届かないという現実もある。
しかしこういうケースもあって、4年前、福岡でホームレス支援に演劇ワークショップをやるという試みがあった。路上生活をする人が、なんとか社会復帰したい。一定の期間、社会生活を営むための教育をうけ、修了して復帰する。(しかし)実際にプログラムをやっても離職率が高く、離職するともどってこない。(社会復帰の)方法として演劇は使えないのか?というものだった。とある団体が入って、私がアドバイザーとして実践したのだが、これが比較的うまくいった。あるホームレスがセンターに行ってコミュニケーションを学んで初任給でお芝居を観に行ったという成功例もあり、更生途中でドロップアウトされる人もいる中で、『なんとかうまくやっていこう』という事例も確かにある。
『作品作り』としてはコーディネーターの存在が欠けている。演出家も作家もいるがいわゆる『ドラマターグ』と呼ばれる“つなげていく人”がいないのが大きい。日本では作、演出という形で作品作りを行う人が圧倒的に多い。ドラマターグがいることでどこに向かっていくか?という方向性が作れる。
 
<中村>考え方として、『どこに必要か』ということで、田野さんのお話のとおり、学校では時間も余裕もない。ステレオタイプな例ではあるが、東大に入ったら燃え尽きる、コミュニケーションができないというなかで、大学でもコミュニケーションワークショップが必要というのもあるが、進学校にこそ大事で、『自分の得意な事しかやらない』『受験にでるからやる』ではなくて、仮に国を動かすことになったときに行動力がないと危ない。
 

Q8.演劇教育が、実際の教科に入る可能性はあるのか?現場の教員がコミュニケーションワークショップをやるというのは実際に機能するのか?

A.<田野>教科で…というと、国語の授業の中でやるというのもある。今日前半のワークで体験していただいた短歌のワークショップは、もともと国語の先生と一緒にやったものであり、中学では『平家物語』、小学校では『もちもちの木』などを単元としてやることが多かった。国語以外でも、体育、社会、算数でもできる。教科に結びついた実践も可能性はある。
今後の方向性として、2.3年でブラッシュアップする可能性があるが、2年をかけてこういうプログラムをやるといいだろう、というのを選定してやっていただく。ワークショップをやる事(自体)が重要になってきてしまっていて、コミュニケーションをやるのは『何をやるか』よりも『どうやるか?』であり、ファシリテーションを先生達にどう理解してもらうのか?というところでもある。
やり方としては、夏に平田オリザが職員研修の中で取り入れて説明してもらう機会を設けたり、諸々の事情で参加できない先生のために、モデル校での実践例を見て、フィードバック、事例を見ていただいたりなどを今年度から増やしていく。同時に大きく問題になってくるのは『常にいる』先生で、『他者でいること』をいかにすり合わせていけるのかというのが大事。私たちが学校に行ってファシリテーションをする分には『他者』の立場で生徒に接する事ができるが、生徒と行動をともにする機会が圧倒的に多い先生方で他者性を出すのは難しいところでもある。先生が中心になって進めるが、そこに関わる他者、演劇人としての存在は重要な気がする。